リスク

去年自分も参加していた自転車レース「行田クリテリウム」の市民カテゴリーで接触、転倒があり、男性が1人意識不明の重体であるというニュースを目にした。開けて今日、重体だった男性が亡くなったという情報が入ってきた。ご冥福をお祈りします。

自転車レースは命の危険を伴う競技には間違いない。時速50~60km/h出る中で吹っ飛んだら軽い怪我で済む方がラッキーなほど。自分も落車で無数の擦過傷をおったり、鎖骨骨折も経験した。ヘルメットを被っているものの、薄いウェアを纏うだけなので、ほぼ生身の体のまま放り投げられる。もうそのあとはどうしようもない。

 事故の原因がタイヤのバースト(破裂)ということだが、詳しい情報、正しい情報は確かではないので何とも言えない。

自転車競技には自転車競技をやっている者にしかわからない快感だったり、やめられない何かがあると考えている。だから例え怪我を負ってももう一度レースに参加しようと決意するし、それが原因でやめようと思う人が少ないのは自分の周りを見ても確かである。

これからアンチ自転車競技の人が、これぞとばかりにやれ危険だ、大会なんて中止しろという声を上げるかもしれない。確かに、ロード乗りは今まで以上に歩行者や車に配慮して走行していくのは間違いない。対向車線にはみ出すような行為や車を煽るような行為は絶対にするべきではない。

しかし理解しておきたいのは、レース中の事故と一般道で走っている時に起きる事故は別物である。レース中の事故はほぼすべて自己責任であると認識せねばならない。自分が単独で転ぶ場合もあれば、他者の転倒に巻き込まれて転ぶ可能性も高いのである。

自分の記憶する限りでは、これが、アマチュアライダーがレース中の事故で亡くなった初めての例であり、また自分が参加していた大会、コースで起こった事故として凄まじい衝撃を受けたものだった。

また来年「行田クリテリウム」が行われるかどうかは分からないが、この事件をきっかけによりいっそう自転車に乗る危険性やレースに参加する責任を呑み込んでいかなければならないと思う。

farewell

タイトルのfarewell は、お別れする、見送るという意味だ。

今まで、英語で友達に I went to airport to say good-bye. と言っていたので、これからはfarewellを使っていこうと思う。

といってもおそらくもう誰かを見送ることはなく、自分が見送られる側になるだろう。もう残り2週間だ。

今日は多くの友達が帰国する日だったので、学校の人をよく空港で見かけた。自分も見送るために空港へ行ったのだが、別れの時は少し感傷的になる。しかし泣くほどではなかった。

小、中、高と卒業、別れの式を経験したものの涙を流す、ものすごく過ごした日々を大切に思い過ぎることはなかったので、振り返ってみれば普通に終わった。元々そういう性格な為、そういう風に感情が湧かないのもあるのだろう。

別れの時に泣きたくはないが、シドニーを立つときに思い残しがないようにするため、2週間を充実させたい。

早いもので

時間はあっという間に過ぎていくと思ってたけど、どこか半年は長ぇなとも思っていた。

しかし、学校卒業、本来なら帰国前日である今日感じるのは短かったなということ。

初めて降り立った9月。もう周りにびびりまくり、緊張しまくり、でもそれを隠して強がっていた。ジムに通うだけでも、いちいち戸惑っていたりと今考えれば笑える事ばかりで懐かしい。

ホームシックにならないかな、とか早く帰りたいと思わないかなとナーバスになっていたが、振り返ってみればそんなことはなく。本当に周りに恵まれ、環境に恵まれ、助けられて過ごしてきた。

残り2週間。

隠居生活や引きこもるような生活はせず、ガンガンアクティブに過ごしていこう。

価値観

「海外で暮らした方が絶対良いよな」

留学生や海外で暮らしていた経験がある人が日本を評価する時に良く聞く言葉だ。

全員という訳ではないが自分の知る限り80%くらいの人がこう言っていたと思う。

何でそういう風に思うのだろうか。

ある友達は、「人間関係が楽」

違う友達は「こっちの方が自由やし」

また「日本つまらない」と言っていた。(最後のやつはその人の生活スタイルによる)

自分が思うに、海外で暮らす方が精神的なストレスを日本より感じることが少ないのではないだろうか。

例えば電車。

オーストラリアで、シドニーで日本ほどの満員電車に乗ったことがない。

勿論、日本または自分の姿勢に暮らす東京の方が人口密度は高く、そういった意味では一概に比較できないのを考慮するが。

しかし、この電車事情の問題は濃い。

例えば、満員電車では痴漢、冤罪といったリスクが耐えない。また混雑に対するストレスで肩がぶつかった、足が踏まれたなどといざこざに発展する可能性も高いだろう。特に朝の多くの人がストレスを抱える時間帯では。

一方シドニーでは、だいたい座席に座ることができ、例え混雑していても壁に顔を押し付けられるほどではない。朝も座れて、読書や動画を見るなど、仕事、学校前のリラックスタイムを過ごせる。

またこちらの電車、座席のスタイルが日本でいう新幹線のようなタイプなので席数も多く、座れる確率が高いのも良いところだ。

未だにただの1度も「この人痴漢です」や「てめぇ何ぶつかってんだよ」という声を聞いたことがない。

ただそれは自分の周りでは起きてないので、他の所では、どれくらい痴漢や冤罪といった問題がpublic transportationの中で発生しているかはわからない。また日本に21年住んでいて電車利用も15年間しているのと比べると、こちらでは5カ月しか滞在していなくて、そもそもそういった問題をひとくくりに比較することはできない。そこは簡単に、シドニーでは一切車内でトラブルは起きませんと言えないのは確かだ。

 それでも東京より心の穏やかさは感じられるのではなないか。

自分が感じたストレスフリーな例として電車を挙げたが、それ以外にもまだ要因は存在する。

次はライフスタイルについて感じたことを書き記そうと思う。

意識の違い

語学学校のイベントで、それぞれの国の郷土料理を各々が作り、食べ合うというイベントが行われた。

自分は寿司を選択。とはいっても握り寿司なんて作れないから、即席の手巻き寿司を用意することにした。

鮮度の事を考えて前日に作るよりも当日に用意した方が美味しいだろうから、朝6時に起きて準備。何しろ初めて手巻き寿司を作るので色々不慣れなことばかり。ご飯をたいてお酢を混ぜて、具材を切って、最後に海苔に巻く作業。

約1時間程で完成。とはいっても想像していたよりも見栄えはいまいち、具材も充分に用意できなかったので味もそこまでクオリティは高くない。まあでもいいっしょ!と思い、パックに詰めて出掛けた。

公園に集まり皆でシェア。

タイ料理、韓国料理、ブラジル料理などバラエティー豊かで味も素晴らしい!

自分も恥ずかしながらお寿司を出す。初めて自分で作った物を人に食べてもらうから少し緊張した。どんなに小さなイベントでも人に何か評価してもらうのは、緊張するし、満足してもらいたいと思うもの。

中々自分の物を食べてもらえず、ああ、と思っていたら計4人が食べてくれた。

その時嬉しかったし、その後美味しかった、ありがとうと言ってもらい、なんだか恥ずかしくそれでも嬉しい思いに溢れていた。

 

今まで母親にいつもお弁当や晩御飯を作ってもらっていた。シドニーに来てからもそう、ホストマザーがランチやディナーを作ってくれた。ほとんど自分で作って食べるや食べてもらうことなんて経験したことはなかった。

だから、作り提供する側の気持ちや労力を心から感謝したり、理解してはいなかったと思う。ありがたいなと思う気持ちは持っていたが、その大変さや評価されることの気持ちを本当に知ってはいなかった。

相手の立場になって考えるのは難しい。相手の事を理解するには、その人と同じ経験をして経験を味わうことでしか得られないのではないだろうか。

 

たかが手巻き寿司を用意するにも1時間という時間と労力を要した。ではほとんど毎日ご飯を用意してくれる母親やホストマザーはどれだけ大変なのだろうか。例えビジネスでやっていたとしてもご飯を用意してくれることに感謝したい。何より母親はどれだけ尽くしてくれるのだろうか。

作ってくれた物に対する感謝の表し方は完食すること、お礼を言うことしかないだろう。

その気持ち、姿勢をこれから忘れずに過ごしていこうと思った。

引き際

5回

今日あることに5回挑戦した。

その結果、5回とも成功を得られずに終わった。

なぜ5回も続けたのか。

それは2.3回目まで次は当たりがあると賭けたからである。

引き際を考えるのは難しい。それは上記のよに先にはより良い結果が待っているのでは?と願いを込めてしまうから。それは何の根拠もない、ただ可能性の低いものにも関わらずなのにだ。

 

しかし5回挑戦したからこそ後悔なく終われたのだ。もしここで3回で止めていたら、4.5回チャレンジしなかったことに後悔していただろう。

このチャレンジは無駄ではなかったと私は思う。 

またこの教訓から、何かにチャレンジする場合は前もって、計画をたててから、日にちを決めてからチャレンジすべきだ。突発的に決めたところで、良い結果は手に入らないと強く感じた。

感謝

先週の土曜日、仲良くしていた日本人の留学生友達が帰国した。

彼は自分よりも2週間遅れて来たが、4ヵ月の滞在契約だったので、自分達よりも早めに帰ることになっていた。

彼の出身は兵庫で自分よりも2才年上の大学生。関西人なだけあって面白く、自分のこともよくいじってくれたり、常に面白い話に事欠かない一緒に居て本当に楽しい人だった。

ただ思うことがある。もし彼と日本で知り合っていたらこんなに仲良くなれただろうか。

彼は自分より2才年上だが、話すときはタメ口、名前も呼び捨てで呼んでいた。日本ではまああまり考えられない状況だ。年上に対しては敬語で話し、名前も~さんをつけるのが当たり前。これが普通であるし、そういうのが常識という雰囲気の中で生活しているのだからそうするのが普通である。

だからもし日本で知り合っていたら、もうちょっと堅苦しく付き合っていたし気を使っていたと思う。

そして彼はとてもフレンドリーだった。

彼の英語力はお世辞にも高いとは言えないし、発音もネイティブに比べれば日本訛りが入っていてかつ文法もあまり正しくはない。

だが、彼の話はわかりやすく、ユーモアもあり、何度も話しかけて直ぐに外人相手にも打ち解けていた。外国人の友達も彼の話で笑っていたし、とても楽しそうに見えた。

自分はそういう彼の姿勢にリスペクトしていた。自分は英語を完璧に話すこと、聞くこと、書くことにこだわり過ぎていて、そういう友達と楽しく会話する事を疎かにしていた。話すときも発音を気にするし、文法も気にする。だから上手く喋れなさそうな時には何かを言うのを心にしまい、会話が途切れてしまうことが度々あった。

そういう羞恥心や自分の姿勢を彼の姿を見て、とにかく話そう、楽しもう、というこっちに来た当初の気持ちを思い出した。

今までのように学校で授業を受け、飯を食べて、ジムに行くという生活はもう出来ないし、簡単には会えなくなり寂しいが、これからも一生の友達として続いていけたら嬉しい。